綺筵


 枝を押しやり、通る風に、枝葉と落葉が音を立てる。
 そして、地を覆い隠した鮮やかな色の上で、じっと男を抱き締める女。黒の着物が、一帯を覆い尽した色の中で、一際目立って浮かび上がる。
 再び、風が薙いだ。何度目か、開いた双眸に空気に流れる木の葉が映る。
「乱菊さん」
 いつの間にか緩んだ腕の中で、修兵が小さく身じろぎした。
 つられるように、乱菊の顔が修兵の耳を掠めて、肩口に下りる。額を押し付けると、以外に大きな手が、乱菊を支えるように背中にかかった。
「少しは、楽になりました?」
 予想外の言葉に、乱菊は一瞬息を止めた。
 弾かれたように顔を上げると、見下ろす顔には少しだけ眉間に皺が寄っている。心配そうな、困ったようなその顔を見て、乱菊の中から一気に何かが引き去った。
「何で…あんたはいつもそうなのよ……」
 そう、いつもどこかが崩れない。怒る時も、笑う時も、真剣な時も、ふざける時も。素直な感情を発露した後は、常に変わらず、忌々しいくらい落ち着いた表情へと戻ってくる。
「よく、そんなに冷静でいられるわね」
「そう思いますか?」
「思うわよ」
「思わないで下さい。俺、結構ギリギリなんですから」
「そう言う余裕があるトコが嫌」
「そうしてないとヤバイんスよ、本気で」
「何で正気に戻すのよ」
「だって……なんか卑怯じゃないですか」
「―――もういいわ」
 溜息のように言って、乱菊は首に掛けた腕をほどく。立ち上がって背を向けて……そこで強く肩を引かれた。
「ちょっ…と、修兵何して……」
「お返しです」
「……いらないわよ」
「あんな事やっといた挙句にそれって酷くないですか?」
「分かったわよ。謝るわ。謝るから離しなさい」
 後ろから、修兵の腕にすっぽりと包まれる。驚くよりもその暖かさに落ち着かなくて、乱菊は柄にも無く狼狽えた。
「嫌ですか?」
「嫌よ。だから離し……」
 言い終わらないうちに、突然温もりから解放される。訪れたのは、安堵と不安。唐突過ぎる変化に、乱菊は思わず後ろを振り向いた。
「修―――」
「乱菊さん、俺の事誤解してません?」
 言葉が指し示すものが余りに多くて、乱菊は咄嗟に答えに詰まる。単純に是非で答えられるものではないし、そもそも自分の認識が合っているのかが分からない。
「俺、あんな事されて平静でいられる程、人間できてませんよ?」
「だったら何で……」
「勝手に一人で傷付かないで下さい」
「―――……だから…どうしてあんたはそうなのよ」
 溜息しか出てこない。的確過ぎて、腹立たしいのも通り越す。
「俺は、傷付けたくないと思ってますから。それに……」
「それに?」
「乱菊さんに先越されるとは思わなかったんで」
 言われて今度こそ、乱菊は心の底から絶句した。
「嬉しかったって言ったら、怒ります?」
「恥ずかしいから言わないで」
「すみません、もう言ってます」
 そういう問題じゃない。という言葉は、結局、声には変わらない。
 気紛れに強い風が、吹き抜ける瞬間だけ木々の間で竜巻を作り、紅い木の葉を小さく宙に巻き上げる。
「乱菊さん。もっと俺を頼って下さいよ。それで、俺にも頼らせて下さい」
 心に浮かぶ気持ちが多過ぎて、うまく言葉が探せない。そんな乱菊を見通して、修兵は短く付け加える。
「今は、それしか言いませんから」
 真っ直ぐな視線と言葉。それに、自然と瞳が逸らされる。
「………格好付けてんじゃないわよ」
「格好いいって思いました?」
「そーいう意味じゃないわよ!」
 咄嗟に転じた視線が不本意にぶつかる。思わず笑う修兵の余裕に腹が立ち、乱菊は一歩を大きく踏み出した。
 力任せに右腕を引くと、勿論相手は前のめりに傾いてくる。そのまま、修兵の頭に手を添えて、乱菊は右の瞼に唇を落とした。
「―――……ら…乱菊さ……?」
 目を見開いて呆気に取られる修兵の顔に満足し、乱菊は笑みを浮かべて掴んだ腕を大きく放す。
「乱菊さん……」
「何?」
「続き、期待してもいいですか?」
「………しなくていいっ!」
 そして結局、いつもと同じ。悔しい気持ちと軽やかな気分。
 悔し紛れにわざと大きく身を翻すと、すぐさま声が追って来る。
「帰るんですか?」
「そーよ、悪い?」
「送って行きます」
「必要ないわよ」
「じゃ、勝手に後ろから付いて行くんで」
「何ソレ、ストーカー?」
「途中まで道一緒じゃないスか」
「後ろに付かれると気になるから止めて」
「それじゃあ、横で」
「………一応言っとくけど、横歩くだけよ」
「他に何するんスか?」
「………………」
「乱菊さん?」
「とっとと行くわよ、修兵!」
 はい、と答える声には笑いが混じる。気恥ずかしさと居心地のよさを自覚して、乱菊は気付き始めた思いに抵抗するのは諦めた。
 枝が揺れる。人が去り、後に残った紅葉の上に、また一つ、風に受け止められた葉が下りた。





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