秋津


 扉を開けた途端目に入った光景に、修兵は我が目を疑った。
「…………乱菊さん」
「何?」
「何やってるんスか?」
「昼寝」
「で、ここを一体何処だと」
「あんたの部屋でしょ?」
「……執務室です。ついでに九番隊の」
「いーじゃないの。どっちでも」
「仕事はどうしたんですか」
「寝たら帰るわ」
「寝ないで下さい」
「……………………」
 修兵の言葉を綺麗に無視し、執務室のソファの上で横になった乱菊は、そのまま速やかに両目を閉じる。どう言っても聞く気はないと無言で示され、修兵は思わず溜息を吐いた。
 沈黙は、一人でいるより二人の方が余計に際立つ。何とか仕事に集中しても、ふとした拍子にその沈黙が気に掛かる。その度、ソファにいる相手の事を極力考えないように努力して、その非効率さに修兵は一人呆れ返った。
 秋の日は、一旦傾けば速やかに落ちる。緩んだ光に気が付いて、修兵は一段落した書類を置いて立ち上がった。
 窓を開けると、思いの外に涼しい風が流れ込む。そこから見える範囲では、それほど秋の気配は強くない。最も、ここから見てそうと思えるようになる頃には、秋も随分深まってしまっているだろう。気付こうと思わない限り、季節の移りは容易に人の意識を置いて行く。
 振り向いて、ゆっくりとソファに目を遣るが、乱菊は相変わらず穏やかに寝息を立てている。一体いつまで、ここに居座るつもりだろうか。
 嬉しくないと言えば嘘になる。だが、どうすればいいのか対応に困る。他の事であれば幾らでも冷静に対処する自信はあるのだが、この人の事となると、どうしてこうも調子が狂ってしまうのだろう。
 短かめの髪を掻き上げて、窓際の壁に背を寄せる。と、その修兵の横を通り抜け、窓から吸い込まれるように部屋へと入って来たのは一匹の蜻蛉。
 静かな部屋に、微かな羽音も大きく響く。悠々と辺りを飛び回るのは、記憶に残る赤い色。
「あ………」
 飛ぶ姿を誘われるままに目で追って、そして思わず声を出した。赤い蜻蛉が降りたのは、乱菊が眠るソファの背もたれ。
 何に安心したのか、蜻蛉は翅を斜めに下げてそこに留まる。頓着せずに振舞う様子が悔しくて、修兵は思わずソファに近付いた。
 こっそり手を伸ばしたつもりだが、蜻蛉はあっさりそれを擦り抜ける。止まった場所は反対側の背もたれの端。
 もう一度手を伸ばそうとして……しかし、すぐ側から聞こえた身じろぎの音に、修兵は慌てて視線を落とした。
 僅かに動いて、そして再び眠りに落ちた姿にほっとする。だが、向けた視線はそのまま彼女に絡み取られた。
 ソファを回り込んで、乱菊の傍らに座り込む。
 別に、どうするつもりもない。何をできる訳でもない。ただ、こうして眺めるくらいなら、今の自分にも許されるだろう。
 そのまま暫く眺めていて、そうするうちにふと気が付いた。
「……起きてます?」
 答えは無い。
「起きてますよね? 乱菊さん」
「………………何か用?」
 観念したように目を開けて、不機嫌な顔が修兵を睨む。
「いつから起きてたんですか」
「修兵。あんた、起きるに起きれないって状況分からない?」
「起きれなかったんですか?」
「あのね。あんだけじっと見られてて、起きれるワケがないでしょ?」
「見ないのは勿体無い気がしたんで」
「………ソレは一体どーいう意味に取ればいいわけ」
 困惑した分、不機嫌な表情が深くなる。
「普段、こんな近くで乱菊さんの顔なんて見れないじゃないスか」
「ワケ分かんないわよ。何その理由」
「分からなくてもいいですよ」
「はあ?」
「それより、帰った方がいいんじゃないですか?」
「今何時?」
「もう夕方っスね」
「ふーん。じゃあ、このままサボるわ」
「怒られますよ?」
「いーのよ。あんたも共犯ってコトにしとくから」
「………勝手に押し掛けて来たのは乱菊さんじゃないスか」
「修兵。仕事、何時に終わる?」
 話題が、予想の付かない方へ飛ぶ。
「多分、定時には上がれると思いますけど」
「それまでココで待っとくわ」
 意外な言葉に、修兵は思わず乱菊の顔を見直した。
「終わったら飲みに行くわよ。たまには奢ったげるから」
「どういう風の吹き回しですか?」
「行くの? 行かないの?」
「行きます」
「じゃ、その代わり、ちゃんと匿ってね」
「もしかして、それが目的なんですか?」
「うるさいわね。とっとと仕事終らせなさい」
 命令形。乱菊の言葉と、彼女を説得する気のあっさり失せた現金な自分に苦笑しながら、修兵は素直に机に戻った。
 いつも、こんな気紛れに自分は翻弄されて、そして容易く心を乱される。だが、それすら嬉しく思えてしまうのだから、相当の重症なのかもしれない。
「乱菊さん。寝てもいいですけど、ちゃんと起きて下さいよ?」
「分かってるわよ。だから、あんたも早く仕事終わらせなさいよ?」
「了解しました」
 言う言葉には、どちらも語尾に笑みが被る。
 部屋の中に、長く差し込む秋の日差し。窓辺から、蜻蛉が大きく飛び立った。





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