霜葉


 背後の変化に、修兵は反射的に振り向いた。
「乱菊さん……」
 どうしたんですか。とは、聞けなかった。聞いてはいけない気がしたから。
「……何処行くんですか?」
 前触れ無く立ち上がり、そのまま歩き出した乱菊を躊躇いがちに追いかける。答えは無い。間に置かれた距離を痛感しながら、それでも一人にしたくはなかった。
 無言のままに足を進める乱菊に、どこか必死な思いで付いて行く。
「―――修兵はどうなの」
「え……?」
 続いて立ち止まって、後姿を見直した。
「あんたは何処に行く気なの? 一体、何をどうしたいのよ?」
 振り向いた乱菊の口調の強さと、瞳の奧の震えに、修兵は言葉を失った。
 その場所で、紅葉の樹が、二人の上に大きく枝を差し掛ける。
 それは、枝の先ほど色味が強く、幹に近付くほど変化が浅い。
 強く濃く、この上なく深い赤。陽射しを加え、色を繋いだ鮮黄色。そして、未だ艶やかな浅緑。
 一本の樹を、明確に、そして複雑に色を違えさせたのは、夜気かそれとも秋霜か。
 何が美しいかは人に依る。何処が印象的かも人に依る。だが、光を透かして広がる葉は、視覚より、胸に染むほど鮮烈だった。
 それを、傍らから眺むではなく、影の中から見上げる故に。
「何であたしを誘ってくれたの? どうしてそんなに、あたしの事考えてくれるの?」
「乱菊さん……」
 言葉を探して、そして一つだけしか見付からない。
「俺は……」
「知ってるわよ」
 遮る声が、小さく震えた。
「……知ってたわよ!」
 枝を掠めて、風が通る。
「あんたがあたしをどう思ってるとか、何であたしを見てくれてるかとか、そんな事くらい分かってたわよ!」
 散るべき時では無い紅葉。過ぎる風にはただ揺れる。
「知らないフリして……気付かないフリしてただけよ!」
 自らが紡ぐ言葉に、瞳の色が強まった。
「だけど……」
 吐息が揺れる。
「………だけど、どうせ変わるでしょう……?」
 掠れる言葉は、叫びより響く。そして恐らく、それは心の底からの絶叫だった。
「修兵も……」
 終わりの事など考えたくも無い。だが、考えずにはいられない。
 喪失は、ただ悲しいのでも、寂しいのでもない。それと知った苦しさが、永遠に、痛みを持って根差す事。
「いつかは、あんたも居なくなるんでしょ?」
 過去を持って、そして今を生きるまでならできるだろう。だが、いつかまた来る喪失に、できる覚悟などある筈も無い。
「要らないわよ」
 失う事が恐ろしい。失う事に思いが至る事が恐ろしい。失ったと、知る苦しさが恐ろしい。
「だから……放っといて。あたしの事は」
 自分が言う、その理不尽さは分かっている。だが、
「あたしは、一人でいいから」
「………乱菊さ……」
 自分に掛かった言葉を払い、踵を返すと、伸ばされた手が追って来る。それを強く振り解いて、一人、歩みを進めようとする。
 だが、紅葉の影からその身は出ない。
 強引に引き寄せた腕に、乱菊はきつく閉じ込められた。
「修……」
 続く言葉が一瞬途切れ、そして揺れる葉影が目に入る。
「離して……お願い」
 強く閉じた目の前に、散った紅葉がちらついて、記憶の奥から、残った枝が浮かび上がった。





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