常磐木


「修兵、離して」
「…………嫌です」
 響いた声の近さと低さ。抱く腕に篭もった熱さと強さ。波のように、ざわめく葉音が遠のいた。
 やわい陽射しに関わらず、足元で、影は深く地面に落ちる。翳り無く、高く溶け合う遠い空。穏やかに、ただ清冷に過ぎる風。
 一瞬惑った。それが悔しい。自らの、言葉に反する心の揺れが。
「……ちょっと、いい加減に――」
「離したら逃げるじゃないですか」
「………それがどうしたの」
 意識して、敢えて声から表情を消した。
 枝先へ、流れるように青い緑が真紅と変じる。掛かる枝葉は今まさに、間を繋ぐ全ての色を表して、光を受けた紅葉笠。
 接した背が、大きな鼓動を感じ取る。そよぐ葉影のその中で、乱菊が繋がれるのは腕の中。
 こうやって、無理やりにでも引き留められる理由は良く分かる。修兵の、いつからかの視線の意味も、向かう想いも知っていたから。
 だが、言った筈だ。傍には誰も要らないと。居てもいずれは消えるのだから。
「……乱菊さんが決めないで下さいよ」
 押し出すように、声が聞こえる。
「俺が居なくなるとか、変わるとか、それが何で分かるんですか」
「分からないわよ。でもそうなるわ」
「なりませんよ」
「なるわよ、いつか」
 それは乱菊の中で、確信のように頑なにある。
 結局は、誰もが同じ。理由はどうあれ、きっと自分の傍から居なくなる。だからそう言い、そして想いを拒絶している。
「乱菊さん。何が怖いんですか?」
 あの時に思いが至れば、孤独を何より思い出す。
「―――じゃあ、教えて下さい」
「何をよ?」
「乱菊さんが言うのは、それが誰だからなんですか?」
「誰って――――………」
 窮した沈黙。止まった呼吸が、答えの半ばを明確に語る。
「………乱菊さん。見て下さいよ、俺を。誰かとか、そんな漠然とした相手じゃなくて俺を。それでちゃんと答えて下さい」
 拒絶は、修兵だから…で出した答えではない。乱菊は、ただ、近付く全ての者から逃げようとしただけだ。それが誰だと、深く考えた結果ではない。
「好きです。乱菊さん。傍に、居させて下さい」
 そう、ゆっくりと紡ぐ言葉を腕の中で聞いて、乱菊は静かに呟いた。
「……傍に…居てくれとかじゃないのね」
「居たいんですよ、俺が」
「変わってるわね」
「誰もが、同じじゃないですから。それでこれが、俺の気持ちです」
「そう……」
 回された腕に手を添えると、緩んだ縛めはあっさり解ける。
 一歩進んで振り向くと、修兵の顔を真っ直ぐに見た。
 強い記憶は過去を定め、そうして全てを其処に繋げる。凝った過去は今を縛り、然るが故に未来を狭める。
 言葉を逃げずに受けられたのは、修兵がそうさせてくれたから。ならば、自分の気持ちも、逃げずに示そう。
「修兵。何があっても、あたしの傍に居られるの?」
「乱菊さんが居させてくれれば」
「あたしをちゃんと、捕まえてられる?」
「乱菊さんが、逃げないなら」
「じゃあ、そうできるくらいに、あたしを惚れさせてみなさい」
「………難しいっスよ。それ」
「どうして」
「比べ物にならないくらい、俺の方が乱菊さんの事、好きですからね。惚れさせるのにどうすればいいのかなんて分かりませんよ」
 至極当然に、困ったように言うものだから、
「告白なら、もう少し格好良い事言おうとか思わないの?」
「思ってましたよ。でも無理だったんで」
 苦笑混じりは照れ隠し。
「いろいろ考えてても、実際に乱菊さん前にしたら、そんな事言う余裕なんて無くなりましたよ」
「重症ね」
「自覚してます。だから―――」
「………居てもいいわよ」
 告げた答えに、瞳を覗いた視線に笑う。
「居たいんでしょう? あたしの傍に」
「いいんですか?」
「その代わり、捕まえててね。ちゃんと」
 居なくなったら、あんたのせいだから。
「離しませんよ」
「本当に?」
 進む歩みを止めるのは、道に迷いを作るのは、己自身が持つ怖れ。
「だって、離せないですから」
「それは益々重症ね」
 伸ばされる前に近付いて、今度は自分で、腕の中へと入り込む。そのままふわりと背を寄せると、包むように抱き締められた。
 木の葉を揺らして渡る風。紅葉、黄葉。秋に染まって散る葉色。
 そして常緑。枝を置いて色を広げ、雨に洗われ色を強める。異色掛けて色を高め、時を重ねて色を増す。
「好きですよ。乱菊さん」
「ありがとう」
「逃げないで下さいね」
「……逃げないように、捕まえててね」
 言うは言の葉。込めるは言霊。それは、願うが故に力を持ち、知るが為に力を顕す。





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