挂灯


 昼間ならば、我知らず木々へと向かう視線が、路傍に咲いた一群の花へと吸い付けられた。
 東の空から紺碧が広がり、陰の差した中天の薄青を白く月が半円に切る。夜へと急ぐ黄昏の空。暮色を滲ませ、染むように広がる。
 日が隠れて影が消え、周囲の色は尽く明瞭さを失った。道は沈み、幹と緑葉は暗さを増して、紅葉と黄葉は闇に掠れる。速やかに、地上の全てが空の移りに先立った。
 全てが色を濁す時、見えるのは元より色に染まぬもの。目を惹いたのは、群れ咲く花が闇に際立つ白い菊。微かに揺れる、そこだけ明るい。
 来ない待ち人。手持ち無沙汰も手伝って、修兵はそちらへ真っ直ぐ歩み寄る。
 微妙な光が残るうちは、外での明かりは何を照らすも意味を成さない。しかし、その中で、くっきり浮かぶ花色は燈のように人を招いた。
 手を伸べて、花の一つを軽くつつく。揺れてぶつかる八重の花冠は、思いの外にずっしりと重い。
 それを見て、そういえば菊の酒というものもあったと、修兵は関係の無い事を思い出す。菊の花を浮かべた酒だったか。最も、重陽に飲むものだから、時期はとうに過ぎている。果たしてそれが美味いのかは知らないが、恐らく、見た目と気分によるのだろう。風流だと、そう括ってしまえばそれまでだ。
 当然ながら、単に酒を飲むのなら、風流よりも状況による。同僚達と飲むならば、主となるのは会話と勢い。時間が過ぎれば、座中の会話など在って無い。幸か不幸か、修兵は酔った勢いで羽目を外す事も酔い潰れる事も無いのだが、どちらにしても、味わうというよりただ飲み下しているに様子は近い。
 一人ならば、周囲をただ眺めつつ、酒をゆっくり味わう事もできる。但し、好悪に関わらず、様々な事を考えない訳にはいかなくなるが。
 しかし、どうという事の無い話から少しばかり深い話まで、酒を味わいながら気兼ねなく人と話せる機会はそれ程多くあるものではない。寧ろ、機会というよりその相手。
 だから、そんな相手のいる自分は幸いだ。ふとした時に、心の底からそう思う。実際は、その理由が何であれ、一緒にいられるだけで嬉しいのだが。
 青みを帯びた夕闇が、地上を深く侵食する。それは下手に辺りが見える分、夜闇よりも厄介だ。無意識に視界に頼り、不明瞭さに注意が薄れる。
 西の際。黄みが橙色を導くと、紫を加えて青が強まる。宵月が次第に光を持って、夜の色が空の半ばに差し掛かった。
「――――修兵?」
 不意に掛かった声。訝しげな調子に、修兵は慌てて振り向いた。
「あ……乱菊さん。来てたんですか」
「あんたが気配に気付かないなんて珍しいわね。どうしたのよ」
「いや、ちょっとぼーっとしてて」
 言いつつも、待ち人の訪れにほっとする。
「それに、まだ遅くなるんじゃないかと思ってたもんで」
「何よソレ」
「早く来てくれて、感謝してるって事ですよ」
「ま、あたしがわざわざ仕事早く片付けて来たんだから当然ね」
「ありがとうございます」
 姿ははっきり見えずとも、互いの様子はよく分かる。浮かべた笑みは、言葉の端に掛かるもの。
「今日は何飲むんですか?」
「そうね…そろそろ熱燗も良さそうだし、冷酒もいいわね」
「また違う銘柄を飲み比べですか」
「ちゃんと付き合いなさいよ?」
「言われなくても、いつもそうしてるじゃないですか」
 歩みを促すのは、言葉ではなく流れる空気。その場所を、後にしたと気付くのは、少しばかり行ってから。
 夕星が大きく光る西の空。柔らかく、色を足した弓張月。残照は、夜を引いた夕日の名残。
 そして残った白菊は、白く道の辺に灯りを掲げ、群れては人を差し招く。






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