曙光


 夜に凍えた大気の中を、気配密かに戻り行く。朝明けの東。そして西は沈黙の下。
 日の出は遅い。それでも時の流れは変わらないから、夜の間に戻るつもりでいた。そう思っていた筈が、帰って来たのはこの時間。
 明かりを得始めた空。対して、自室に向かう廊下には未だ夜気が漂っていた。それでも、其処此処で微かに人の気配が動き始める。
 もう少し遅ければ、流石に人に見られたろう。今日の所も、部屋の近くで誰かに出くわさなかったというのは偶然に近い。
 分かっているのに、どうしても彼女の元から去り難かった。暫く会えなかっただけ、その気持ちは余計に強い。今でさえ、次に会う時を探している。
 声が聞きたい。姿が見たい。そしてできれば、この手で触れたい。
 何度も思って、そして何度叶っても、次を思わぬ時は無い。
 開いた障子。射し入る光の乏しさに、部屋の中は暗く沈む。此処が外に比べて明るいのは、明りを灯した夜だけだ。それが無ければ、微かな星にも及ばない。
 何とはなしに、畳んで積まれた布団に寄り掛かる。早朝の気と冷たさに、頭は奇妙に冴えていて、抜け切っていない疲れだけが、気だるさとして残っていた。
 使われなかった布団は、冷え冷えとして素っ気無い。時刻からして、余裕があっても眠る訳にはいかないから、ぼんやりと、部屋を見るともなしにそうしていた。
 彼女に惹かれ、部屋の灯りに誘われる。昨夜の事ながら、思い返せば不思議な気持ちだ。
 約束していた訳では無く、単に自分が会いたいと。只そう思って訪ねて行った。会えるかどうかは考えに無く、確かなのは、部屋近くに行ける事。
 見えた、ぽつりと灯った部屋の明り。遠くからでは分からない、その小さな光が嬉しかった。
 開かれた障子。外に射し込む、内に籠ったような柔らかい明かり。庭に立ち尽くした自分を見て、彼女がどう思ったかは分からない。
 浮かんだ表情は、光に反した一瞬の影が強く覆い隠していた。しかし、彼女が何を思ったとしても、彼女に会えた自分ほど、強く喜びを感じはしなかったろう。
 呆れるほどに、相手を想う気持ちの強さは自分にばかり傾いている。相手がいつか離れて行くのではと、それを怖れているのは自分の方だ。
 意外な相手を庭に見つけた彼女は、驚いたように名を呟いた。
 きっと呆れていただろう。続く言葉は、予想通りに笑みを浮かべた。だがそれでも、強く抱き締めた自分を抱き返してくれた。
 秋の夜。会えない時を感じた程に長ければいいと思ったが、結局そうとは思えない。
 だから、何か根拠を作り出して、少しでも長くいようと試みる。その点は、以前と何ら変わっていない。
 進歩が無いのか、それとも自分の想いに変化が無いという証だろうか。どちらにしても、自分が彼女に弱いのだという点だけは、考えるまでもないのだが。
 うっすらと明るくなり始めた部屋の中。無意識に気を緩めて、そのまま眠りに落ちそうになった自分を慌てて起こす。
 誰もが忙しい時期に、自分が遅刻したでは話にならない。
 温んできた布団から身を起こして、外の空気を部屋に入れる。片隅に、霧がかったようにある眠気を、それで何とか追い出しに掛かった。
 見上げた空に限られていた光が、次第に地上の景色を浮かび上がらせる。淡紅から淡黄色。伸びて融和し、そして白く霞んだ薄い青。大きく広がり、気付けば夜は西の彼方。
 明け方は、光も色も優しく出でる。だが今は、光も色も、乏しい夜こそ懐かしい。
 思い出すのは、暗く翳った空の色。黒の地を、濃灰色に掠る雲。歩みを強く、妨げるような夜の風。廊下に漏れ出し、庭に射し、そして彼女を照らしたあの明り。
 何より重要なのは、彼女がそこにいる事だ。彼女がその場にいるからこそ、全てが強く記憶に残る。
 何度でも、こんな思いは繰り返すだろう。そして何度でも、自分はきっと、繰り返したいと強く望むに違いない。
 遥か、大きな光が僅かに覗く。大気は高く空を掲げ、全てが再び動き出す。
 夜が去り、始まる時は、短く長い。





inserted by FC2 system