甜酒


「―――誰にも、言わないって事にしときますか?」
 密やかに、低い声が聞こえる。
「誰かに言ったって仕方ないわ」
 気だるい応えは、夜陰に増した艶を含む。
「気にされるだけなのに、わざわざ言い触らす趣味も無い……ですか?」
「そういうコトね……」
 ふっと、気付いたように言葉が続く。
「でも、分かってるのに聞いたの?」
「一応。乱菊さんに釘刺されとかないと、俺、調子に乗りそうですから」
「どうして」
「分かりませんか?」
 覗き込むように、吐息がかかる。
「どうかしら」
 暫しの沈黙。そして、笑んだ二つの声が空気を揺らした。
 戯れ付く様に、唇が合う。濃密な夜気。庭に降り、忍び広がる霜気を溶かして、触れる肌は只熱い。
 微かな雲と、満月近い薄明り。
「乱菊さん……?」
 腕の中で身をよじった乱菊の、枕元へと伸ばした手先から、修兵は徳利を取り上げた。
「……これですか?」
「入ってる?」
「……割と」
 重たげな水音に、乱菊は折敷から杯を取る。修兵は、促されるより前にゆっくりと徳利を傾けた。
「美味いですか?」
 一息に含み、舌先で転がして飲み込んだ音は、隣にいるからこそ耳に残る。
「飲んでみる?」
「それじゃ、一献頂きます」
 肘で身を起こしたうつ伏せで、慎重に手から渡る杯と渡される徳利。
「……どう?」
「美味いですよ。何て酒でしたっけ、これ」
「貰い物なんだけど……」
 首を傾げて、語尾が彷徨う。
「あ、いいですよ」
「多分、後で瓶見れば分かるわ」
 徳利を置いた手に、杯が戻る。
「酒、さっきより甘くなかったですか?」
「咽喉渇いたからじゃない?」
 笑い含みで、さらりと言う。修兵は、暫し苦笑でそれを受けた。
「――もう少し、飲みますか?」
「お願い」
 そしてまた、一つの杯、二人の言葉がゆるりと行き交う。
「乱菊さん、酔い潰れた事ってあんまり無いですよね」
「そういう飲み方しないもの」
「乱菊さんみたく飲んでたら、普通の奴は潰れると思いますけど」
「単に弱いだけじゃない?」
 あっさり断じた台詞に、修兵は思い立って水を向ける。
「そういえば、乱菊さんって、時々酔ってる振りしてません?」
「…………どういう意味?」
「そのままの意味ですけどね」
「いつあたしがそんなコトしたのよ」
「大勢で飲みに行った時とか」
「………潰れた連中の世話を焼くのは、あたしの役目じゃないでしょ」
「俺ですか?」
「大正解」
 笑って、乱菊は徳利を持ち上げた。
「修兵と飲む時は、そんな真似しないわよ」
「やってくれても、ある意味嬉しいですけどね」
「酔って絡むより、できるだけ長く、一緒に飲んで楽しみたいでしょ?」
 酒を飲み干す修兵を横目に見上げて、乱菊はゆっくりと付け加えた。
「それに、あたしと一番長く飲めるのは、あんたよ。修兵」
「…………殺し文句ですよ、それ」
 溜息のように、杯を置く。殆んど空の徳利が、滑るようにその横に並んだ。
 そして今度は、奇妙に甘い、吐息が混じる。障子を透かした霜夜の月。互いの姿は、闇の中に浮き上がる。
 凝った空気。澄んだ沈黙。地面と草は、月を鈍く照り返す。





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