燭影


 月は欠け、雲が夜空の半ばを隠す。冷たい霖雨に散らされた、染まりに過ぎた紅葉の姿は、思い返すだけで鬱々とした。
 静けさに、葉風は時折吹き過ぎる。忍ぶように冷気が寄って、閉じた部屋は寒々と広い。
 灯した明りが作る陰影を受けて、乱菊は独り杯を傾けた。
「………………」
 飲み干して、その後吐く息はいつになく長い。自室だというのに落ち着かず、杯を置いた手がそのまま横の徳利に伸びる。
 注いで間もなくそれを干すと、また同じ動きの繰り返し。独酌自体は珍しくは無い。だが、珍しいのは、深酒をしそうなこの頻度。
 明日も仕事だ。いくら酒には強いと言っても、量は控えるべきに決まっている。そう自覚はしても、飲む速さには一向に変化は見られない。
 酒の味も不味くは無い。だが、実際のところ味など分かる筈も無い。独り飲むのは単なる逃避。酒で紛らわしたいのは、苛立つ自分の心持ち。
 もう、何日会っていないだろう。
 日にちを数えてしまうのは、敢えて望まなくとも仕事で時折顔を合わせ、時間が合えばそのまま帰りに飲みに行く。それが普通になっていたせいだ。
 そう考える事にしていた。そうでなければ、感じる苛立ちの説明が付かない。
 会いに来れないほどに多忙なのは知っている。実際の所、乱菊自身も忙しい。だが、彼女の方は全く会えないほどでは無い。その、不可抗力から来る僅かなずれ。
 考える余裕があるだけに、一旦気になり始めると、どうにも気持ちが落ち着かなかった。
 いつ会うと、確かな約束はしていない。だが、敢えて言うまでもなく、すぐまた会えると思っていた。
 庭の紅葉は既に殆んどが散っている。気配も前触れも見られぬままに、久方振りの夜雨に、明けた庭を濡れた落ち葉が茜と臙脂で濃く埋めた。
 どうという事の無い雨が、昨日と今日とを大きく隔てる。そしてたゆたう空気の冷たさは、最早、障子や襖で分け切る事が難しい。
 月は隠れて、紅葉は散った。夜だからと、興に乗ずる手段も無い。ならば一体、何と誘えばいいだろう。
 これまでは、どちらからとなく飲みに行こうと誘い合う。それで十分だったのに、今は、多忙な相手を理由も無く誘っていいものか、それを酷く迷っている。
 これまでは、話を向ければ例外なく、彼の方からやって来た。どんな些細な理由でも、律儀にそれが約束となる。だが今は、それを伝える時も無い。
 必要無かった筈の悩み。それは、乱菊にとって予想外。
「――……あー…もう……」
 振り払おうと大きく飲んだ一口が、一層余計に咽喉を焼く。
「………くっだらない……」
 呟いた一言が、只々無性に虚しかった。
 壁に背を預けて、指先を畳目に滑らせる。視線は、ぼんやりと光の染みる天井辺りを彷徨って、畳に落ちた影は輪郭を定めぬままに長く伸びる。
 一つだけの明かりが、届かぬ先の闇の深さを尚のこと際立たせた。
 外では変わらず枝葉が擦れ、強まる風音がそれに重なる。部屋の明りは夜を暗くし、外を得体の知れない闇へと変える。
「――――……」
 ふと、何かを感じた気がした。
 不意に兆した微かな気配。気付いて意識をそちらに向けると、躊躇いがちに消した霊圧が、逆にはっきり居場所を告げる。
 乱菊は、反射的に立ち上がった。
「―――……あ……」
 大きく開いた障子から、突然伸びた光を受け、庭に立った人影は中途半端に声を消す。
「修兵………」
 それだけ言って、乱菊は続ける言葉を失った。
 自分は一体、何を思って開けたのだろう。予感や期待とは恐らく違う。ただ、頭を掠めた思いに、気付けばこうして立っている。
 それ以上を止めたのは、迷いではなく己の矜持。
「……すみません」
 沈黙に何を思ったか、相手の口から的外れな謝罪が零れた。
「どうしても、乱菊さんの顔が見たかったんで」
 本当に、そう思ったから来たのだろう。そうでなければ、もう少し別の台詞が出る筈だ。
「………あたしが起きてたからよかったけど、寝てたら無駄骨になるとこよ?」
 呆れたように笑うのは、思いの深さを悟られぬ為。
「そしたら、明日も来るつもりでしたよ」
「それでも駄目なら?」
「明後日で」
「会えるまで毎日来るつもりだったの?」
「それだけ会いたかったんですよ。だから―――」
 修兵は、廊下に出た乱菊に促されたように歩み来る。
「よかった……」
 短い言葉は、それだけ多くを秘めている。乱菊は、求めるように腕を引く手に抗わず、身体を屈めて修兵の肩に手を添えた。
「修兵、寒いんじゃない? 身体、冷えてるわよ」
「乱菊さんがあったかいんで大丈夫です」
「………馬鹿言わないで」
 抱き締められるというよりも、抱き締めているような不思議な感覚。添えただけの両腕が、そのまま彼の背へと回った。
「お酒あるわよ。飲んでったら?」
「いいんですか?」
「折角来たんだから、一杯くらい付き合いなさい」
 身体を離して、さり気なく告げる。微妙な物言いは、果たしてどちらの為だろう。
「……なら、遠慮なく」
 吹き込む風に晒されて、部屋は温度を下げている。
 だが今は、閉め切ってさえ寒い明りも、陰鬱に沈んだ夜闇も、心なしか温もりを増す。
 音を潜めて、庭へと伸びた光が引いた。





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