寒雨


 冷たい小雨が、不意に止んだ。
「濡れてるじゃないですか」
「傘持って来るの忘れたのよ」
 紺の傘を差し掛ける方には目を向けず、答える。
「雪積もってましたね。山」
 乱菊の視線を追いながら、修兵が横に並んだ。
 朝方、薄っすらと雪に覆われた山は、雲と霧に霞んでいる。下界にも降り出した雨。地面に染みるそれは、山では雪を溶かしているだろう。まだ、続いて積もるには少し早い。
 雨空は白く曇る。陽射しの無い昼は、明け方程にぼんやりと明るい。乾いた空気に、注ぐ雨の匂いは乏しかった。
「……乱菊さん?」
 唐突に前へと進み始めた乱菊に、修兵は戸惑い気味に声を掛ける。向かう先にあるのは、一面の枯野。
「何処行くんですか?」
 尋ねながらも、乱菊の後に続く。傘は一つで、持つのは修兵。突っ立ったまま見送っている訳には、絶対にいかない。
 河原の草はその多くが枯れている。高く伸び、そして枯色で尚も立つ。秋草の交じった頃よりも、光景は蕭然として見るべき場所を迷わせた。
「濡れますよ」
 進むにつれて、着物が次第に重くなる。雨露を乗せた枯れ草は、分けるたびに揺れ跳ねた。
「そのくらい我慢しなさいよ」
「いや、俺じゃなくて乱菊さんが……」
 せめて雨は遮ろうと、傘を持つ腕を前方へ伸ばす。前と足元。注意を払うのはそれだけで、足取りは確かな分、水滴は容赦無く降りかかる。
 草間を抜けて、漸く川辺に辿り着く頃。修兵は、自分自身を傘に入れる努力は半分以上放棄していた。
「………ずぶ濡れね」
「誰のせいだと思ってんですか」
「誰のせいなの?」
「…………………」
 聞き返されて、修兵は答えに窮す。
「だから誰のせいなのよ?」
「いや……」
「まさか、あたしのせいとか言わないわよね?」
「……まあ……ハイ」
 已む無く頷く。言い返して勝とうとする気も無いくせに、反射的に口にするのがそもそも無謀だ。
 草叢が切れた先。流れの前で、乱菊はしゃがむ。その身体を濡らさないよう、修兵は傍らで立った。
「律儀ね……」
「どうとでも言って下さい」
 諦めて、投げ遣りに答える。どの道、ここまで自分が見過ごす事のできない相手は彼女くらいだ。他の連中がこれをどう思うかは知らないが。
 流れる川は、水面を打ち切る前に雨を吸い込む。微かな濁りが、周囲を一層翳らせた。
「あ」
 不意に、目前を赤茶色が石にぶつかりながら流れ去る。
「紅葉……」
 少し前まで至る所で目に付いた、紅色に染まった葉。流れ行くのは、既に散り枯れて縮んだ姿。だが、それと分かる独特な形を崩してはいない。
「どっから流れてきたんですかね」
「冬なのに」
 上流に目を向けても、続き広がるのは枯色ばかり。山々は、白く霞んだ下に青黒く沈む。
「……修兵」
 呼ばれて見ると、手招きされた。傘の高さに気を付けながら、修兵は乱菊の隣にしゃがみ込む。
「………面白いわね。素直で」
「何なんですか、一体」
「ちょっとね……―――」
 そして言いかける声が一瞬近付く。左の目元に乱菊の唇が落ちて、修兵は危うく傘を取り落としかけた。
「なっ………」
「あ、びっくりしてる」
「ちょっ……何ですか突然……!?」
 どこか楽しげな乱菊。動揺がまともに伝わった事を知って、修兵は更に狼狽えた。
「修兵、こういう不意打ちに慣れてないわね」
「…………からかってるんですか? 乱菊さん」
「何よ、嬉しくないの?」
「いや、あの……そういう問題なんですか?」
 話をずらして誤魔化すが、どうにも不利な気がする。というか、確実に。
 そして、またしても前触れ無く立ち上がる乱菊に、慌てて合わせてその場に立った。
「…分かってますから、からかわないで下さい」
 意味深に見上げる乱菊に、機先を制して言っておく。
「ふーん、嬉しくなかったの?」
「………どうせなら、俺は口の方が…」
「じゃあ、考えとくわ」
 負け惜しみのはずが、そう、あっさりと返される。明らかな余裕。何だか、以前よりも力関係が一方的になっているのは気のせいか。
「まあ…いいですけどね……」
「え、何?」
「何でもないです。それで、帰るんですか?」
「そうね。修兵が風邪引くと、他の隊員が困るだろうし」
「乱菊さんは困らないんですか」
「あたしは心配なだけ」
 さらりと言って、乱菊はそ知らぬ顔で歩き出す。後に続いて、修兵は密かに溜息を吐いた。問題なのは、絶対的に不利な立場をどうするつもりも無い自分自身だろうか。
 降る雨は続く。枯色の高草が大きく揺れて、水辺から後姿が消え去った。





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