雪景


 回廊より見渡せば、なめらかに雪を被って連なる甍。雪曇りの空から降る朝の光に、重なる上で微かに凍った雪片が小さく煌めく。雪を撫でて吹き寄せる風は、清々しさと共に強い冷気を含んでいた。
 音も無く、長い金色がふわりと揺れる。僅かな吐息は白く流れ、じわりと手指に寒気が沁みた。立ち止まり、欄干の外を見遣る眼差しは、深く曇って光は薄い。
 彼女の心に掛かるのは、今朝方見た夢の記憶。どんな夢かは覚えていない。確かなのは、それから逃れるように目を開けた事。
 気分の中に感覚としてだけ残る夢の残滓。思い返そうとすれば、胸の内を焦燥感が駆け巡る。
 反射的に拒否したのは、染み出すような苦い思い。嫌だと感じたのは、心を掻き乱されてしまう事。消えぬまま奥底に沈んでいた古い感情が、不意に浮かび上がるから。
 白い景色は常より静かで、少しばかり早い時間は一層それを思わせる。吹き込むように半端に積もった手摺の雪を、軽く撫で払って跡を付け……
「………乱菊さん?」
「――っ………!!」
 背後から突然掛かった声に息を詰めて、乱菊は勢いよく振り向いた。
「………え、あ……修…兵…」
「だ、大丈夫ですか。乱菊さん?」
 ぶつかった視線は、予想以上に驚愕する相手に同じくらい驚いた修兵のもの。
「あ、ごめん……突然だったからちょっと……」
「いや、あの…すみません。そんなにびっくりするとは思わなかったんで」
 それぞれ互いに、自分と相手の反応に狼狽える。
「あー…えっと……何か用だった?」
「いえ、こんなとこで立ち止まってたんで、どうかしたのかと思って」
「え、ゴメン、今何時?」
「あ、まだ大丈夫ですよ。定例集会までには時間ありますから」
「え? じゃあ、でも……」
「あ、俺はちょっと早く来過ぎただけですから」
「そう…よかった……」
 小さく息を吐く。
「そんなに長い間ぼーっとしてたのかと思って、びっくりしたわ」
「どうかしたんですか?」
「大した事じゃないわ。ちょっと考え事」
「………そうですか」
 一瞬、修兵の顔を物言いたげな表情が掠めたが、それを速やかに収めて何事も無いように同意する。無闇に追求しない心遣いを有り難いと思いつつ、乱菊の中に罪悪感の欠片が落ちた。自分は彼に、己に関してこんなにも沈黙を強いている。
 気を取り直させるように、修兵が周囲を眺め渡した。
「雪、一晩で積もりましたね」
「ええ……そうね。これくらいなら見てても綺麗なんだけど」
「昼の間に結構溶けますかね。溶けかけたのが凍みると、かなり厄介なんですけど」
「取り敢えず、今日の夜と明日の朝は気を付けた方がよさそうね。この天気じゃ、半分くらいしか溶けないわ」
 肩を竦めると、改めて修兵に視線を戻す。
「そういえば、修兵はどうしたの? 今朝はやけに早いけど」
「いつもより早く目が覚めたんで」
「それだけ?」
「………や、本当は、乱菊さんを迎えに行こうと思ったんですけどね」
 苦笑気味の答えに、乱菊は軽く目を見張る。
「あ、もしかして部屋まで……」
「いや、こっちに来る姿が見えたんで、行き違いにはならずにすみましたけど」
「……………」
「あ、気にしないで下さい。俺が勝手に行こうとしてただけなんで」
 返す言葉に迷った乱菊に、修兵は慌てて付け加えた。
「ここで会えたんで、俺にとっては変わりませんよ。というか、こっちの方がゆっくり話せますから」
 言う、修兵の言葉にぼんやりと相槌を打ちながら、乱菊は思わず視線を落とした。
 だとすれば、修兵は随分前から近くにいたに違いない。独り佇む自分の事を考えて、敢えて話し掛けずにいてくれたのだろう。自分はその方が嬉しいし、彼がそうしてくれる相手だとも知っている。
 だが今は、その事が無性に申し訳ない気がした。
 傍に居る相手に気を使わせて、話す事も踏み込む事も無言のうちに制限させる。自身の事で精一杯で、ただ相手の好意に甘えている。結局の所、関係を続ける努力を相手にばかり求める卑怯な自分を分かっているから、こんな時、尚更に自分自身が厭わしい。
 咄嗟に、何かを言わなければならない気がした。
「―――……ごめん」
「乱菊さん……?」
「ごめんね、修兵」
 謝罪を口にしながらも、正直、乱菊にはどうすればいいのか分からなかった。伝えるべき事は幾らでもある筈なのに、何と言えば伝わるのだろう。
「どうしたんですか……?」
 伸ばした手で死覇装を小さく掴み、胸に額を押し付ける乱菊の肩に、修兵は当惑しながら手を添える。
「…………ありがと」
「乱…―――」
「修兵が居てくれて、嬉しいから……」
 こんな言葉などでは駄目だと思った。こんな言葉で、全てが伝わる訳が無い。
「不安にさせて、ごめんね」
 もどかしくて、情けなくて、乱菊は修兵の背に手を回した。抱き締めたら、少しは伝わるだろうか。
 思って……そして、抱き締められた。
「乱菊さん――……」
 そのまま安心で緩みそうになる腕に、力を込める。
「ありがとうございます」
 静かな響きを聞いて、ふと思う。こんなにも容易く自分の不安は溶けるのに、進んでこの腕に入るのを躊躇するのは何故だろう。自分は一体何に対して、矜持を保っていたいのだろう。
 きっとまだ、思う事の一部しか伝わってはいなくて、そしてそれが精一杯。自分の思いを示す事。それがこんなにも難しい。
 どうすれば、伝えられるようになるのだろうか―――。
 思う間に、いつしか雲が細く切れる。合間から、光の筋が地上に向かって射し込んだ。





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