逆夢


 月は大きく、月暈の染みる空は濃藍。風は僅かに湿りを帯びる。波打つ枝葉が、一寸の沈黙を闇の奥から曳き出した。
 黒の甍。白い壁。星の乏しい夜を背負う影。瓦を踏んで、見合い、立つ。
 霜刃二つ。意図を持って下がる切っ先が、鈍く冷気を解き放つ。
 東の方。風に遊ぶ金の髪。纏う気は、濡れた空気にたゆたうT蒿に似る。
 西の方。濃い墨色の深い瞳。纏う気は、只々吹き巻く風の如く。
 気は緩く、握る柄から刃先へ満ちる。風が近付き、甍を駆けて、黒い樹影を抜け去った。
 風音、葉音、沈黙が落ちるその刹那―――それら二つが衝突した。
 最初に動いたのは青墨の風。対する方は、一瞬に近付いた斬撃を刃で受ける。ぶつかる瞬間身体を捻り、刀身を傾け引いて、左に流す。互いの刃が離れた瞬間、鋭く閃き攻勢へ転じた。
 鈍く、高い、音が響く。
 彼は、振り向きざまに、迫る白刃を力任せに撥ね退ける。僅かに弾いて出来た間に、横様に大きく飛び退くと、上手と下手が入れ替わる。
 跳んだと見るや、彼女はそれを追って瓦を蹴った。金の髪が後ろに流れる。体勢を立て直させるより先に、間近に達して刀を繰り出す。
 一合、二合……。斬り上げ、下ろし、鋭く払って、横に薙ぐ。刃音は冷たく、刀刃は熱い。
 その悉くを刀で防ぎ、彼は守勢を保ってじりじりと下がる。巧みに足の向きを変え、いつしか足場は屋頂から緩い勾配へと移動した。
 夜空に比して月は小さく、見下ろす甍は更に小さい。刃を交える二つの影は、その上を斜めに、次いで真横に横切っていく。
 間断なく繰り出される斬撃は、どれもが鋭く、隙が無い。衝撃を伝える掌に、次第に薄ら汗が滲む。黒い双眸に、連続する太刀筋が映った。
 そして果たして何度目か。斜めに斬り上げる刀を受けたと同時に身を沈めた。刃を受けたそのままで、握った刀を後ろに倒す。やや後ろに身体を傾け、横に捻ってぎりぎりで避けると、前になった柄尻をそのまま、勾配の下から上へ、伸び上がるように飛び込んだ。
 右に斬り上げた斬撃が流されて、延々と続いた打ち合いに、一瞬入った空白の瞬間。すかさず迫る風圧に、刀を返す隙は無い。彼女は上体を開いて右に逃げ、続く一閃を飛び躱そうとした所で、屋根の端に迫っている事に気が付いた。大きく飛べば先の屋根まで移れはするが、咄嗟に距離を測れない。
 迷ってそのまま軽く飛ぶ。甍を離れ、宙に身体を躍らせた。落ちて行きつつ、体勢を直して地面へ向かう。着地と同時に地を蹴ると、身を低くして左手へ逃げた。一瞬後に落ちる斬撃。辛くも避けて、建物の無い開けた空間へと飛び出した。
 勢いのまま斬り下ろした一撃が空を斬り、身を起こして向き直る隙に、相手の姿が視界から消えた。彼女の出方を警戒し、そのまま追うのを思い止まる。再び屋根へと舞い上がったが、見下ろす周囲に人影は無い。
 緊張を解かず、気配を探る。だが、今更のように、風が吹くのを感じた。
 額に浮かんだ汗はそのままに、白い壁に落ちた影に紛れて彼女は気息を整えた。
 直ぐに追って来るかと構えていたが、誘いには乗っては来なかったらしい。既に自分の気配は消している。それを探る事に意識が行って、向こうの気配を消されていないのが幸いだ。姿は見えないが、上の屋根に戻った事は分かる。
 警戒して、下手に降りては来ないだろう。逆に、こちらも迂闊に飛び出せない。
 さて、どうするか。
 屋根上で油断無く辺りを見渡しつつ、彼は、膠着状態に手を出しかねて思案する。
 無闇に下に降りる訳にはいかない。潜んでいる場所が分からない以上、確実に向こうが有利だ。逆に、相手が不意打ちに屋根の端から飛び出して来た場合――自分の反応と、その時どちらを向いているかの運による。正面からなら、まずこちらに分があるが。
 相手の出方を待つか、自分を囮に動くか――。
 結論は、程無く出た。
 建物に囲まれ、開けた空間の中央へと向かい、影が奔る。それを追って、もう一つの影が舞い降りた。
 姿を現した彼女は、しかし迎撃には移らない。そのまま真っ直ぐ舞い上がり、正面の屋根を蹴って外へと進む。追う方も、それに続いた。
 追う者と、追われる者。それは即ち、どちらが先に動いたか。
 景色が移り、硬い地面は草地に変わる。雨の匂いが程近い。緑の波は、月の光で僅かばかりの陰影を作る。
 中程で、先を行く者が止まった。長い髪を翻し、刀を隙無く前に構える。続く者も同時に止まり、間合いを取って対峙する。
 呼吸を計ったのは、しかし一拍。
 ぶつかり、そして刃が奔る。交錯したのは一瞬。流れるように入れ替わり、青草を踏み締めると同時に身体を返す。氷刃が再び火花を散らした。
 押し切られたのは、剣速ではなく膂力故。他でも無く、それが違うと承知している。必要以上に逆らわず、残りを半ば滑らせて、彼女は一気に懐へと飛び込んだ。不安定な瓦より、土の足場は数段確か。
 疾い――。肉薄する刀尖を感じ取り、咄嗟に大きく後ろに倒れた。右頬が熱い。左腕で苦し紛れに体重を支えると、それでも辛うじて半身を捻り、右の脚を大きく振った。
 躱されたと見るや、刀を下げて反射的に飛び退る。その先を、蹴りの風圧が掠め去る。持ち手を狙った打撃。だが、それが過ぎると、鋭く前へと踏み込んだ。
 転がるように突きを避け、両手を付いて飛び起きる。更に退いて、追い縋る一薙ぎに空を切らせた。次の瞬間、反撃に転じる。
 更に一歩を踏み出して、彼女は相手の出す手に動揺した。こちらは返す一閃。対するのは刺突。刃先が鍔を擦り上げる。右に避けたが、左の頬を風が薙いだ。
 金の髪が風に飛ぶ。思い出したかのように、裂けた傷から血が滲んだ。赤くも映らぬそれを見て、彼もまた、右頬の、顎まで届いて滴り落ちる、己の血へと思い至った―――。


 …―――ふと、呟いた。
「絶対に有り得ない事って、あるんですかね……」
「……どうしたの?」
 暗闇で、応じる声を引き寄せる。
「一つ違ったら、全部違ってくる事だって有るじゃないですか」
「それ、例えば?」
「俺と乱菊さんが戦うとか」
「有り得ないわ」
 そう、言い切る確かさが嬉しい。だから、敢えて口にした。
「今はそう言えるんですよ。けど、ずっと昔に違う道を行ってたら、最後にそうなったかもしれない」
「じゃあ、今、戦わなきゃいけなくなったらどうするの?」
「ああ…俺、最期に美人の顔見て死ねたら本望っスからね……」
「ダメ。そういう勝手は赦さないわ」
「駄目ですか?」
「修兵は、あたしが死んでいいって許可を出すまで死ねないの」
「そうなんですか?」
「そうなの。あんたの生殺与奪はあたしが握ってると思いなさい」
「……そりゃ、乱菊さんがいなくなったら、確実に俺は駄目になりますけどね」
「そういう意味じゃなくて――」
「そういう意味です。俺にとっては」
 抱き締めて、肩口に顔をうずめる。呆れたように笑って、乱菊がその髪を撫でた。
「じゃあ取り敢えず、当分修兵は死なないわ」
「ずっとがいいんスけどね、俺」
「無茶言わないの」
 本気なのか冗談なのか。だが、その中の本音は分かっている。
「あたしは結構、往生際が悪くてしぶといの」
「だったら俺も大丈夫ですね」
「ええ。勿論よ」
 外は風。凍みるほどに冷たい空気が、深々と降りゆく雪を受ける。
 夢を現と変えるのは、信じる者の心のみ。





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