雪花


 雪は消えた。過ぎる風は軽い。曇天の薄灰色に落ちるのは、夕刻間近の性急な暗さ。緩みかけたと見えた痛い寒さが、滲み出すように再び戻る。
 整然として滑らかな石畳。二つの足音は、急ぐ気配を感じさせない。交わす会話も今は無く、漂うのは話の合間を繋ぐ沈黙。
 歩みが、不意に止まった。僅かな一瞬、嗅覚を捉えた香り。甘やかさを纏い、高く澄んだ刹名の誘い。
 思う前に、足が止まる。
「乱菊さん……?」
 傍らの修兵が、訝し気に振り返った。無言の相手に一歩近付き、視線の先を自ずと辿る。気付くと同時に、その表情を感嘆が抜けた。
「梅……」
「もう咲いてたのね」
 白い壁、黒の甍を悠然と越えて、伸びた枝には白い花。ごつごつと節くれ立った老木は、黒々として力強い。
 狭い壁内に収まり切れる筈も無く、どこまでも広がる太い枝。細く突き出た真っ直ぐな小枝は、薄い明かりに見落とす緑。
 所々に散り咲く花は、しかし一時で香りを隠す。どれだけ注意を深めても、最早何処にも気配は無い。過ぎた瞬間、ふわりと香る。彼女を止める、たったそれだけ。気まぐれに、呼び止めておいて知らぬ顔。
 ゆっくり近付き、乱菊は枝の下で仰向いた。
「修兵」
 呼んで、僅かに振り向く。
「あそこまで、持ち上げてくれない?」
 頭上の梅を指で差した。
「………あの。持ち上げろって、乱菊さんをですか?」
「他に誰がいるのよ」
 普通に困る修兵を無視し、当然のように手を伸ばす。分からない程度に溜め息を吐いて、修兵は彼女の指した枝を見た。比較して、花数の多い其処との距離を目測する。
 暫しの躊躇いの後、左手で乱菊の膝裏を掬い上げ、右手で腰を支えるように抱き上げた。
 軽々と、とは流石に言えない。しかし、精一杯安定感を持たせた腕の上で、乱菊は身体を起こし、左手を修兵の肩に置いて伸び上がる。
 バランスを取ったまま見上げると、近付いた花がはっきりと見えた。
 赤褐色の萼の中から、ふっくらと、力強く現れた白い蕾。その隣で、大きく開いた花びらの色は、中心にやや紅を置く。
 乱菊は、指先で、捕えた枝を引き寄せる。花の一つに顔を寄せて、その香りを吸い込んだ。今度は逃れず、香りが捕まる。
 だが、不思議と香りが違う気がする。甘やかで涼やか。それでも、吹き抜けるような広がりは無い。
 確かめ直せど、結果は同じ。不満を半ば心に納めて、掛けた指をゆっくりと離した。
 丁寧に下ろされ、地面に降りる。
「気が済みましたか?」
「……何か違うのよね」
「いや、何がですか」
 反射的な反応には、考え込んだ無言で返す。しかしふと、意味深に見上げた。
「そんなに重かった?」
「乱菊さん、背高いじゃないですか」
「身長が可愛くなくて悪かったわね」
「そういう意味じゃないですけど」
「じゃあ、どういう意味よ?」
 挑むように踏み出した。顔を一気に近付けて、瞳に映った自分を覗く。息を呑んだ修兵に、
「――…っていう質問は、勘弁しといてあげるわ」
 笑みを返して、身体を引いた。だが、そう動いたつもりだったのは、彼女だけ。
 引き戻された勢いに、目を見張る。唇を、強引な感触が掠め去った。
「手数料です」
 咄嗟に言葉を見失った乱菊に、修兵は、わざと人の悪い笑みを見せる。
 途端に、乱菊の中で決心が付いた。
 不敵な笑みが消えるより先に、修兵の頬に両手が伸びる。前へと引かれて驚く隙に、乱菊は素早く口付けた。
 交わす吐息は、深く、熱い。二人の上で揺れるのは、紅混じりの白い花。香りを巧みに、内へと秘める。
 ゆっくりと、長く流れた時の後。緩慢な動作で唇が離れ、余韻に浸った身体を離す。
「……お釣りは取っといて。また返して貰うから」
 涼しい顔の乱菊に、修兵は小さく苦笑を返した。
 僅かに縮めた距離間で、どちらともなく歩き出す。頬に滑った感触に、視線を横切る小さな影に、どちらも顔を空に向けた。
「雪……」
「積もりますかね」
「どうかしら」
 散る雪片は、どれもそれほど大きくは無い。
 数を増やして降る雪は、黒い枝を掠めて落ちる。歩む二人を見送って、咲く白梅の花びらに、留まった白が小さく溶けた。





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