春嵐


 茜に重なる濃紺の、強い風に洗われた空。細く、鋭利に西天を掻き、光を注した上弦の月。
 冬へと引き戻すかのように、風が容赦無く吹き荒れる。
 黒の甍。緑に混じった薄紅の枝。細かなざわめきは、風音に消える。
 吹き曝しの屋根上で、座り、そして見渡す一人。肩から背へと波打つ髪は、巻いた空気が吹き上げる。
 瓦を踏んで近付くまた一人。短い髪も、風に圧されて縺れ、乱れる。
「お疲れさまです」
「お疲れ、修兵」
「冷えてきましたね」
「寒い?」
「まあ……でも、割と平気です」
「良く言うわね。その格好で」
 振り向きもせず、可笑しげに言う。
 冷気混じり、突風交じりに荒れる風。何処から来るのか判然としない。
「桜、咲いてましたね」
「早いわね」
「そうですか?」
「置いてかれてる気がするわ。季節に」
 僅かに、空を見上げる。
「あたしが」
「……そういや、春なんスよね。今」
 今更の言葉。不審に振り向き、遣った視線は、相手と合わない。彷徨って、色を沈めた夜景に移す。
「咲いてるんでしょ? 桜」
「そうなんですけど」
「だったら、春なんでしょ」
「そういうもんですか」
「実感無くても、来るもんなのよ」
 黄昏から、宵。時を移した西空を、月は下へと沈み行く。ほんの僅かな月の後ろに、夜空を透かして円い影。
「好きですか? 桜」
「嫌いじゃないわね」
「花見は?」
「程度によるわね。人込みの」
「葉桜は?」
「毛虫がいないんだったら、悪くはないわ」
 小さく、笑みが揺れる。
「遠目で花見はどうですか?」
「いいわね。美味しいお酒があるんなら」
「有りますよ?」
 伸ばされた手を、敢えて避けて立ち上がる。
「あたしが奢ってあげるわ。たまにはね」
 先に立つ。目的を失い、半端に残った相手の右手を、握って引いた。
 冷たい手と手。重なり、そして初めて温もりが通う。
「行くわよ」
「はい」
 大人しく、折り目正しい返事が返る。微かな笑みが、重なるように間に続く。
 冬が残した冷風が、名残を惜しんで大きく過ぎた。





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