襲衣


 いつの間にか、草叢からの虫の音が消えていた。
 朝夕の涼気が冷気に変わり、そして次第に昼の空気も侵食していく。一旦、木の葉が夜露に染まり始めれば、続く変化は目に鮮やかだ。
 時の移りを彩る色。その中で最も印象的な色が、乱菊の眼前に広がっていた。隊舎の私室から眺め渡せる広い庭。大きく広がる紅葉の樹。
 副隊長の部屋ともなれば、流石に他の隊員達は遠慮する。ましてや非番の昼間ならば、それ以上に部屋の周囲は閑散としていた。
 襖を開け放し、足を伸ばしてのんびりと庭を眺める。
 乱菊が着ているのは、黒地にぼかした色合いで大胆に菊の花をあしらった小紋。半襟は紺色。片流しに結ぶのは、くすんだ緑に淡黄色の大きな麻の葉文様の入った半幅の帯。
 普段着ならば、濃い青紫の地に紺の飛び柄の入った紬を着て、白か薄紫の帯を貝の口に締めれば良い。だが偶然、箪笥の中で、以前買ったまま着る機会のなかった小紋が目に入った。
 しかし、着たといっても別段どこかに出掛ける用事もない。
 加えて紅葉を見ていると、季節的には必ずしも間違っていないとは言え、菊花の柄はどこかずれているような気がする。
「……と言ってもねえ……」
 普段、一日の殆んどを黒の死覇装で過ごしていると、いざという時、着物の組み合わせが全く頭に浮かばない。この場合は単に一人で部屋にいるだけで、そんな事を気に病む必要もないのだが。
 僅かに迷って、結局そのまま着ている事にすると、着物の事は頭の中から追い出しておく。周囲を気にせずゆっくりできる日に、そんな些細な事で思い煩わされるのは御免だ。
 風は乏しく、散る葉はほんの数えるほど。仰ぎ見上げた空は高く、俯し臨むその色を穏やかに広げる。
 そして、庭に数ある色彩で殊更目を引くのは、常磐木の緑に重なる鮮やかな赤。それは、ただ紅だけが連なるよりも、より鮮明に色を増す。
 この時思う赤の美しさは、緑が共にあるが故。緑が一層際立つのは、赤が隣に添うが為。
 眩しい程に対照を成すそれらは、しかし、紅葉が散るまでのひと時のものでしかない。例えそれが一つでも、赤が残っていれば緑は映える。だが、それも全て散ってしまえば、人の目に焼き付くまでの強い印象は瞬く間に色褪せる。
 もしもあるのが連綿とした紅だけであれば、次第に褪せる様子も流れるように映るだろう。
 どちらが良いとも言えないが、同じ散るなら記憶に残らない方がいい。それが在った時の鮮やかさだけが残るのは、目前の褪色を尚更虚しく感じてしまうだろうから。
 思って、乱菊はふと口元だけで笑った。
 変わっていない。結局、いつまでも引き摺っている。否、引き摺られていると言うべきか。
 全てはいずれ消えるもの。だが、消える事を前提に物事を考える必要など無いというのに、自分はいつもそうしている。
 理由は自明だ。去るのも居なくなるのも、傍から消えるとすれば同じ事。好んで何度も繰り返したいとは思わない。ただそれだけ。
 友人はいる。上司も部下も。先輩も後輩も。関係性には十分以上に恵まれている。流魂街の出ならば、血縁がいないのは誰しも同じ。
 欠けているものも、必要不可欠だとは思えない。
 だからと言って、去った者がその場所にいたという訳ではないけれど。
 ただ、一時でも自分の近くにいた。他の者とは少しばかり違った距離に。他でもないその事実が、自分を逡巡させている。
 それを思えば可笑しくは無い。ただ、見る者から見れば奇妙だろう。いつまでも、常に空いた隣の空間。
 こうやって、どれだけ誤魔化していられるだろう。己自身とその周りを。
 いつかは変化もあるのだろうか。色濃く過去の染み付いた、変わりの無い己の心に。
 束の間、乱菊は深くに憂いを持った眼差しで、先刻と同じ場所に意識を戻した。
 今しも、名残惜しく枝を離れた赤い葉が、黒い地面に色を添える。
 そう、比するものが無い限り、違えるものが無い限り、全ては色を延ばすのみ。
 だが、一つ色に異なる色を重ねる勇気は、まだ、自分にはない。





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