7th


「お。来たね、修兵さん」
「そりゃあ勿論」
 短い遣り取り。置いて行かれた乱菊は、扉を入ったばかりの修兵と、カウンターの向こうに立つマスターの顔を交互に眺めた。
「何? どうしたの?」
「会ったんスよ。今朝」
「偶然、駅の近くでね」
「今朝って、何時頃?」
「六時前…五時半過ぎかな。店からの帰りにね」
「ふーん。……で、ソレ、早朝出勤なの、朝帰りなの?」
「ご想像にお任せします」
 涼しい顔で流すと、いつものように乱菊の隣に納まる。
「で、何か見覚えある人がいると思ったら、マスターで。俺、危うくそのまま通り過ぎるとこだったんスけどね」
「酷いなあ、修兵さん。こっちはすぐ気付いたのに」
「マスターのは職業柄だって」
「そうかなあ?」
「っていうか、普通気付くわよ。他の人はともかく、あんたの顔を誰がどうやったら間違えるっていうの」
「そうっスか?」
「ボケた事言ってないで、自覚しなさい」
「…あ、マスター。俺、白ね」
「どんな感じがいいかな?」
「割とすっきりした感じのヤツで。あと、チーズ。ドライフルーツは乱菊さんに」
「……あんた、食べ物で誤魔化す気?」
「あ、バレました?」
 あっさり笑う。
「でも、じゃあ、いらないですか? ドライフルーツ」
「何言ってんの。勿論貰うわよ。ソレとコレとは話が別」
「何ですかそれ」
「だって、ドライフルーツ欲しいじゃないの」
 澄ました顔でワインを飲んで、見返す相手に答えてみせた。
「――…修兵さん。はい、どうぞ」
 ややあって、修兵の前にもグラスが置かれる。
「サンキュ。これ、どこの?」
「ドイツだよ。乱菊さんのも。あっちは赤だけど、産地は同じ」
「へえ…美味いですか?」
「当たり前でしょ」
 言って、グラスに残ったワインを大きく飲み干す。次いで、ゆっくりとグラスに口を付ける修兵を横目で眺めた。
「修兵。それ、どう?」
「飲み易いですよ。少し軽めで」
「じゃ、少し頂戴」
「は?」
「だから頂戴って言ってんの」
「……って、コレですか!?」
「当然じゃないの」
「や、自分で頼んで下さいよ」
「今日頼むのは赤って決めてんの」
「だったら、白飲む必要無いじゃないスか」
「単に一口飲みたいだけよ。いいから貸しなさい。こっちにちょっと移すから」
「いや、それ、さっき赤ワイン入ってましたよ」
「だったらどうなのよ?」
「味、混ざりますって」
「大丈夫。分かんないわよ」
「底の方、ワイン残ってるじゃないですか」
「色が残ってるだけよ。逆さにしたって飲めないんだから仕方ないでしょ」
「だったらせめて、新しいグラス借りて下さいよ。不味くなりますって、絶対」
「うるさいわね。とっととそのグラス寄越しなさい」
「ちょっ、乱菊さん!?」
 テーブル上を滑らせるようにして奪い取ったグラスから、ワインを自分のグラスに注ぎ込む。
「………すみません…今、絶対混じりましたよ、色」
「気のせいよ」
「いや、何かピンクがかってるじゃないですか」
「目の錯覚でしょ。はい。返すわよ、コレ」
「あ、はい、どうも……ってか、ホント大丈夫なんですか?」
 疑わしげな修兵を無視し、乱菊はさっさとグラスを傾けた。
「―………あの…乱菊さん?」
 一口飲んで、盛大に眉を顰めた彼女に、修兵が遠慮がちに声を掛ける。乱菊は、無言でグラスの中を睨み付けた。
 透明な中に、ほんの僅かに赤みを加えた琥珀色。渋味を抑えた赤ワインのコクが、微妙な甘ったるさに姿を変えて、白ワインの中で無駄に存在を主張する。はっきり言って、
「――――……不味いわね」
「だから言ったじゃないスか」
 露骨に呆れた口調の修兵に、持ったグラスを八つ当たりのように押し付けた。
「はい、飲んでみて」
「…って、嫌ですよ。自分で不味いって言ってたじゃないスか、さっき」
「あたしだけ飲むのは癪だし」
「だからって俺を巻き込まないで下さい」
「やかましいわよ。あたしの他には、あんたしかいないでしょ。ココ」
「どんな論法なんスか」
「どうでもいいのよ。それより…――」
「はいはい、そこまで」
 言葉と同時に伸びた手が、ワイングラスを取り上げる。
「種類の違うワイン飲む時は、同じ色でもグラスは変えた方がいいよ? 乱菊さん」
「だって、マスター……」
「ってか、聞いてんだったら、乱菊さん止めてよ」
「止めても聞きそうに無かったからねえ」
 笑い含みの視線に、乱菊は不機嫌に黙り込む。
「取り敢えず、機嫌直して。はい、チーズにドライフルーツ。口直しは赤ワインでいいかな? 乱菊さん」
「……さっきと違うのでお願い。渋味の強いのね」
「そんなに嫌だったんスか。あれ」
「二度とやらないわ。何よあの微妙な味は」
「だったら、それを人に飲ませようとかしないで下さい」
「覚えてなさい。いつか事故のフリして飲ませてやるから」
「だから、何で俺が当たられなきゃならないんスか」
「そこにいたからよ」
 迷わず断言する乱菊に、修兵は返答に困って視線を移す。カウンターの先で、さり気なく目を逸らされて、仕方なく乱菊の顔へと視線が戻った。
「あー…で、どうすればいいんスか?」
「チーズ。あたしにも分けなさい。そっちにあるの、パルミジャーノでしょ?」
「……すみません。どこまでが計算で、どこからが偶然なんスか」
「気にしなくていいの。ホラ、ドライフィグ一個上げるから」
 そう、いつの間にやら笑顔に変わった乱菊を眺め、修兵は溜息混じりに頷いた。
「俺の分、ちゃんと残して下さいよ?」
「それはあたしの機嫌によるわね」
 さらりと言って。そして、ボリュームを抑えた音楽に、笑い声が小さく重なる。





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