浮影


「乱菊さん。風邪ひきますよ」
「そんなヤワじゃないわよ」
 伸ばした足指の先で、速い流れを薄く掻く。川面が割れて飛沫を散らし、冷気に澄んだ川水が爪の上を奔り去る。水面に乗った赤い葉が、指にぶつかり、ほんの一時小さく流れを堰き止めた。
 緩く蛇行し、山間を縫っては続く流れの一つ。無数の流れを全て集めた下流より狭く、川並は上流よりも格段に落ち着く。だが、気を抜けるほど穏やかではない。
 岩に座った乱菊は、川の上で下駄と足袋とを脱いだ右足を揺らす。跳ね上がり、落ちては流れに混じる水の小片。視界を縦に横にと過ぎ去る色は、散って流れに降りた紅葉の葉。
 空を遮る雲は無い。日の高さは、まだ中天を過ぎた頃。だが、少しばかり傾いただけで、山裾は影を作り始める。
 河原の丸石が転がって、修兵が傍へやってくるのが聞き取れた。
「―――……冷たいでしょ」
「相当低いですよ、水温」
 しゃがみ込み、指を水に浸したまま、修兵は小さく肩をすくめる。
「寒くないですか?」
「別に」
 短く答えて、乱菊は再び水を跳ね上げた。細かい水滴が幾つか落ちて、冷たい感触が皮膚の表面にじわりと滲む。どこか頼りない昼の陽射しは水流と風に押し負けて、ここでは寧ろ、肌に温んだ水の方が温かい。
 指で水の流れを掠めて遊ぶ。すっかり足が冷え切るまでそうしていたが、寒さは余り気にならなかった。
「乱菊さん」
 岩の上で向きを変えた乱菊が、足を振って水を飛ばしただけの裸足で立ち上がろうとしたのを見て、修兵は口調でそれを止める。
「何?」
「濡れたままじゃないですか」
 しかし、言いながら差し出された手拭を、乱菊はあっさりと断った。
「すぐ乾くわよ」
「風邪ひきますって」
「もう聞いたわよ、それ」
 面相臭そうに答えると、手拭を差し出す手が溜息混じりに引き戻される。諦めたのだと思った途端、修兵が足元に屈み込んだ。
「ちょっ……ちょっと修兵、あんた―――」
 自分の足先に手が添えられて、その熱いほどの暖かさに乱菊は余計狼狽える。
「拭くだけですから暴れないで下さいよ」
「じゃなくて、何でそんなコトしてんのよ……!?」
「乱菊さんがしないからじゃないですか」
「そういう問題じゃないでしょうが……!」
 言いつつも、動くに動けず、乱菊は半ば固まったまま修兵の手元を凝視する。骨張った手が、手拭で軽く押さえるようにしながら足の甲から爪先、足裏にかけての水気を拭き取った。
「大丈夫ですよ。足袋履いて下さい」
「………あんた時々信じられないコトするわね」
「乱菊さんが対象の時だけですけどね」
「ソレは一体どういう意味よ」
「足袋履かないんですか?」
 裸足の足先の、濡れて拭かれた部分を風が撫で、そこだけ酷く寒いと感じる。
「じゃあ、履かないって言ったら履かせてくれるワケ?」
「履かせて欲しいんですか?」
「はい、コレ」
「……乱菊さんも十分突拍子もないんですけど」
「だってあたしの場合だけなんでしょ」
 言われて渡された色足袋を履かせ、こはぜを留める手付きは、慣れない為か覚束ない。
「まだ修行が必要みたいね」
「はいはい……で、下駄どこですか?」
「ここ」
 目の前にぶら下がった右近下駄を受け取って、修兵は乱菊の右足にそれを履かせる。
「終わりましたよ」
「立ってないけど」
「………からかってますか?」
「それはある意味こっちのセリフよ」
「……………」
 暫し後、結局伸ばされた手を掴んで、乱菊は低い岩から滑るように立ち上がる。不安定な石と砂利との上でバランスを取ると、もう一度川の方を振り向いた。
「もう散る時期なのね」
「紅葉するってのは、要はそういう事ですからね」
「じゃあ、全部一斉に散ったらどうなんの?」
「水面は埋まるんじゃないですか? 一時的に」
 二人が見遣るのは、川向こう。
「流れた葉って、どこまで行くのかしらね」
「さあ。川は海まで続くもんですけどね」
 行く末は知らない。
 赤い色。対岸で、無数の中から零れ落ち、降った葉色は水に乗る。





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